断らない救急太田凡医師がすごすぎる!wikiプロフ・学歴・経歴まとめ

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こんにちは、ayurinnです。

患者を助けるために奔走し、断らない救急という、まるでドラマのタイトルのような目標を掲げた太田凡医師

救急医療に心血を注ぐ中、「ステージ4の膵がんと診断されましたー。」と自身の病気を公表。

病気と闘いながらも「断らない救急」を推進し続けた太田医師が、昨年末、亡くなったということをニュースで知りました。

深い悲しみを感じるとともに、改めて太田医師の凄さを振り返ろうと、太田医師の活動について調査することに・・・。

合わせて、太田医師のプロフィール学歴経歴wiki風にご紹介したいと思います。

少しでも興味がある方は、ぜひ、最後までお付き合いください。

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断らない救急太田凡医師がすごすぎる!

断らない救急」。

当たり前のように聞こえますが、医療関係者の人手不足や働き方改革、救急医療の利用方法など、様々な問題をはらんだ中での「断らない救急」の在り方については、いろいろと考えさせられるところがあると思います。

医療に携わる方々は、本心では、「断らない救急」を実現したいという思いを抱えながらも、思うようには進まない現実にジレンマを感じているのではないでしょうか?

救急医療を受ける側からすれば、「死にそうなのにどうして受け入れてくれないの?」と安易に考えてしまいますが、そう簡単なものではないのでしょう。

ですが、その難しい問題に。真っ向から取り組んできたのが太田凡医師です。

医師になることを決めた時から、太田医師が目指したのは、「患者を断らない。分け隔てのない救急医」だったと言います。

24時間365日態勢で、救急患者を受け入れる救急医療に長年携わり、多くの患者を分け隔てなく受け入れ、救急医療を実施。

子供からお年寄りまで、本当に幅広い患者さんに対応していました。

そんな厳しい現場の中で、「患者さんが困ったときに駆け込める場所があることで、救われる患者さんもいることが実感できることがやりがい」と語っていた太田医師の姿が目に浮かびます。

救急医療の現場では、「謙虚かつタフに」を常に心がけていたという太田医師。

様々な患者さんが訪れる中、医師が診察するうえで、患者さんを大切に思って仕事をすることは当たり前のこと。

そんな当たり前のことを当たり前にやった結果が、断らない救急だったようです。

救急医療の現場で、「断らない救急」の実現に向けて邁進してきた太田医師ですが、医療従事者の意識に働きかけるには、現場だけでなく大学病院などで、若手の医師や医学生と交流を持つことも必要だと考えた太田医師。

自身の考えを伝え、仕事ぶりを見てもらうことで、今後の日本の救急医療がより良いものに成長していくのではという思いから、教壇に立つことも・・・。

医療従事者の自己犠牲の下で成り立っている部分も多い現在の医療制度を変え、次の世代に繋いでいくためにはどうしたらいいのか、常に先を見ていた太田医師の凄さが、こんなところにも表れているのではないでしょうか?

そんな太田医師は、仕事を離れてリフレッシュする時間も大切にしていたのだそう。

私なんかは、休みの日くらい、いろいろなことから解放されてゆっくり過ごしたいと、ひたすら家でビデオ三昧みたいなインドアな生活を送ってしまうのですが、太田医師は、マラソンで気分転換をしていたのだそう。

ハーフマラソンやフルマラソンの大会に出場するなど、意外にも、本格的にマラソンをしていた太田医師。

仕事でもプライベートでもアクティブな太田医師の凄さに、ただただ、圧倒されてしまいました。

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太田凡医師のwikiプロフ・学歴・経歴まとめ

  • 名前:太田 凡
  • 読み方:おおた ぼん
  • 誕生日:1962年
  • 年齢:62歳(2024年末)
  • 出身地:千葉県
  • 職業:救急医

太田医師が、医師になることを決めたのは、高校2年生の終わりごろだったと言います。

将来の自分の仕事を考えた時に、初めて、医者ってどんな仕事なんだろうと頭に浮かんだのだとか。

やりがいがあることを仕事にしたいと考えていた太田医師は、困った人の窓口になれる医師という仕事は、やりがいがある仕事なんじゃないかと思ったのが、医師を目指すきっかけとなったのだそう。

そんな思いを抱え、医師になるために医学を学んだのが、京都府立医科大学

1988年に卒業し、そのまま京都府立医科大学付属病院第二内科の研修医となった太田医師。

医師になりたてのころ、先輩から教えられた「必要な医師になることが、それが我々の使命だ」という言葉が、今も胸に残っていると言います。

その後は、様々な救急センターで経験を積んだ太田医師。

その経歴は、次の通りです。

1988年 京都府立医科大学附属病院 第2内科 研修医

1989年 京都第二赤十字病院 救命救急センター 医員

1992年 京都府立医科大学 大学院

1996年 京都第二赤十字病院 救命救急センター 医員

2002年 湘南鎌倉総合病院 救急外来医長

2003年 湘南鎌倉総合病院 救急総合診療科医長

2004年 湘南鎌倉総合病院 救急総合診療科部長

2010年 京都府立医科大学 医学部医学科 救急医療学教室 教授

    京都府立医科大学 大学院医学研究科 救急・災害医療システム学 教授

    京都府立医科大学附属病院 救急医療部 部長 

    京都府立医科大学附属病院 救急医療科 部長

引用元:京都府立医科大学HP

さらに、客員教授、役員、委員なども歴任。

2016年以降は、災害医療の分野で、日本DMAT隊員としても活躍されました。

専門分野は、救急、災害医療、集中医療、医学教育、心肺蘇生。

救急医療のスペシャリストとして、現場はもちろん、後進の教育にも勢力に取り組んでいた太田医師。

あまりにも早すぎる62歳という若さでの死。

残念でなりませんが、太田医師の意思は確実に引き継がれていくことでしょう。

なくてはならない救急医療の未来が明るいものとなるよう、利用する側も意識を変えていく必要があるのかもしれませんね。

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まとめ

いかがでしたか?

今回は、断らない救急」という目標を掲げ、救急医療に心血を注いだ太田凡医師について、ご紹介しました。

高校2年生のころから医師を目指し、救急医のスペシャリストとして、現場はもちろん教育現場でも後進の救急医の教育に精力的に取り組んでいた太田医師。

医療従事者の自己犠牲に頼る部分が大きい救急医療の未来を考え、奔走した太田医師の凄さには感服しました。

そんな太田医師の後を引き継ぎ、明るい救急医療のために、日々業務に励む医師の方々がいらっしゃると思うと、とても心強いです。

なくてはならない救急医療が、より良いものとなっていくよう願っています。

太田医師の活動に敬意を表すとともに、ご冥福をお祈りいたします。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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