こんにちは、ayurinnです。
2025年1月8日放送の『奇跡体験!アンビリバボー』で、「この男がいなければドジャースでの大谷翔平選手の活躍はなかったかも」とまで言われるアキヒロ・アイク・イクハラ氏を特集。
日米野球の橋渡し役としても、野球界に大いに貢献したというアキヒロ・アイク・イクハラ氏。
- 一体、どのような人物なのでしょう?
- どんな経歴の持ち主?
- なぜ、ドジャースと関係が?
- 日米野球の橋渡し役とは、何をしたの?
など、色々と気になることが出てきたので、皆さんにもご紹介したいと思います。
少しでも興味がある方は、ぜひ、最後までお付き合いください。
アキヒロ・アイク・イクハラwiki経歴!
早稲田大学、社会人チームで野球選手として活躍していたというアキヒロ氏。
その後、亜細亜大学の監督を務めるなど、国内でも大きく野球に貢献していました。
しかし、さらに野球を探求したい、指導法を学びたいという熱い思いから、渡米を決意。
それは、1965年のことでした。
渡米したアキヒロ・アイク・イクハラ氏が始めたのは、ドジャースのマイナーリーグでの用具係。
ここから、彼のアメリカでの野球人生が始まったのです。
その後、野球に対する熱い情熱を持っていたアキヒロ氏は、ドジャースでメジャー組織と球団経営を学んだのだそう。
すべてに真摯に向き合うアキヒロ氏の姿が信頼を呼び、ドジャースチーム内でも信用のおける日本人として徐々に要職に就くように・・・。
そんなアキヒロ氏を頼る日本の野球関係者も増えていきました。
そして、1982年、ついにドジャース球団オーナーのウォルター・オマリー会長の補佐(国際担当)を務めるまでに。
この頃、日本でもメジャーリーグの情報を放送するため、ディレクターやアナウンサーを常駐させるテレビ局も出てきます。
そして、メジャーリーグ中継の際には、アキヒロ氏が解説を務めるなど、メジャーリーグと日本の橋渡し役として、存在感を強めていくことに。
そんなアキヒロ氏は、アメリカでは、親しみを込めて「アイク イクハラ」と呼ばれていました。
当時を知る人の話によると、「アイク イクハラ」氏は、物腰の柔らかな日系アメリカ人と言ってもしっくりくるような雰囲気を持ち合わせており、「いくはら」という姓と、アイゼンハワー元大統領の愛称にちなみ「アイク」と呼ばれるようになり、多くの野球関係者に愛される存在だったと言います。
プロ野球選手でもなく、メジャーリーガーでもなかったアキヒロ・アイク・イクハラ氏が、「現在の大谷翔平選手の活躍に大いに貢献している」と言われるのは、これらの経歴からなのでしょうね。
単身で渡米し、一流球団のドジャースに入団するなんて、驚きの行動力ですよね。
そこから、球団オーナーの信頼を勝ち得るほどに昇りつめていったということは、よっぽど人間的にもできた方だったのでしょう。
現在では、大谷翔平選手の活躍もさることながら、多くの日本の野球選手がメジャーリーグで活躍されていますよね。
昨年などは、日本の野球の試合よりも大谷選手のメジャーリーグ中継の方が多かったのではないかと思えるくらい、注目されていました。
日本の野球選手にとって夢の舞台でもあるアメリカメジャーリーグ。
その夢の舞台への架け橋となってくれたアキヒロ・アイク・イクハラ氏は、本当にすごい人物でした。
なぜ、ドジャースに?
渡米後に、彼が付いたドジャースのマイナーリーグでの用具係。
何のつてもなく、簡単につけるような仕事なのでしょうか?
色々と調べてみたところ、アキヒロ アイク イクハラ氏が、ドジャースに入団できたのは、当時、巨人軍で顧問を務めていた鈴木惣太郎氏の紹介があったという情報を発見。
野球の指導法を学びたいという思いで、鈴木氏の紹介を頼りに渡米し、ドジャースへ。
用具係として、ユニホームの洗濯や靴磨きなど、本当に熱心にこなしたんですね。
球団の信頼を勝ち得るほどに。
日米野球の橋渡し役とは?
1982年に、ドジャース球団オーナーの補佐役を務めるようになってから、日本とアメリカの橋渡し役としての働きは加速していきます。
アメリカフロリダ州ベロビーチでの巨人と中日のキャンプを実現。
さらに、日米大学野球の開催を進めるなど、プロ・アマを問わず、日米野球の交流に尽力。
また、出身大学である早稲田大学野球部と当時の球団オーナー一族オマリー家との交流は、現在でも続いているとのこと。
そして、1992年にアキヒロ アイク イクハラ氏が亡くなった後、ロサンゼルス郊外にあるオマリー家代々の墓があるその隣に、アキヒロ氏のお墓が建てられたそうです。
まとめ
いかがでしたか?
今回は、『奇跡体験!アンビリバボー』で特集されたアキヒロ アイク イクハラ氏について、ご紹介しました。
- 1937年に生まれ、大学・社会人野球で活躍したのち、野球の指導法を学ぶために渡米したアキヒロ氏。
- 縁あって、ドジャースのマイナーリーグで用具係としてメジャーリーグでの野球人生をスタートさせた彼は、その熱心な働きぶりで信頼を勝ち得ていきます。
- そして、ドジャース球団オーナーの補佐役を務めるまでになり、日米野球の交流に尽力し、橋渡し役として大いに貢献。
その一生を日米野球の架け橋としてささげた彼は、現在でも、名前を残す偉大な人物です。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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